投稿者: ldw-admin

  • 第7回「この広い野原いっぱい」

    第7回「この広い野原いっぱい」

    第7回「この広い野原いっぱい」―優しさが広がることを願って―

    檜原村で、羊を飼っている、とし坊です。前回、「こども食堂」への取組みをお知らせして多くの反響を頂きました。日本は先進国でありながら「こどもの貧困率」が高く、7人に1人が貧困であるという事に、多くの方が驚きを感じているのではないでしょうか? フードロスと言われる食べ残しや廃棄が問題となる一方で、空腹に耐えかねた子どもが、畳をむしって食べるという国のままでは、やがては滅びてしまうのではないかと思います。特に母子家庭において、早急な対策が必要であり、隠しがちになる「貧困」の現実を多くの方に理解してもらうため、様々な取組みに協力しています。 そのひとつとして、横浜では行政支援で、ダンスイベントを開催する事になり、檜原村公式キャラクターの「ひのじゃがくん」と、「SDGs(エス・ディー・ジーズ、持続可能な開発目標)」の取組みを紹介してきました。SDGs とは国連が掲げた17の目標を2030年までに世界中で達成しようというものです。その第一が「貧困をなくそう」というものです。 「貧困」と聞くと、遠い国の話に感じる人が多いのですが、隣で起きている事なのです。ただ、支援を必要とする方々の方は、「施し」と感じ恥ずかしく思うため、まだまだ受けづらい環境にあります。

    そのため、「ダンスやロボットプログラミングの無料教室を主として、ついでに皆で食事も」という複合型にすることで解決できると考えています。 さっそく、ダンス教室を運営しているボランティア等が集まり、楽曲制作から歌、振り付けまで完成したのが「ジャンプ・ジャンプ・ジャンプ」というダンスナンバーです (ユーチューブに、「 ひのじゃがくんダンス」としてアップしましたので、ぜひご覧ください) 。  当日は、このダンスイベントに二千名以上の方々にお集まり頂き、SDG’s への取り組みをお知らせするとともに、大きな賛同を得ることが出来ました。これも多くの方々のご協力があっての事とこの場を借りてお礼申し上げます。  そして気がつけば12月。今年も矢のように一年が過ぎ去ろうとしています。自分に残された時間はあとどのくらいなのでしょうか? 反省の毎日ですが、2020年はもっと多くのことに挑戦していきたいと思います。

    <第6回「上を向いて歩こう」第8回「東京砂漠」>

  • 第6回「上を向いて歩こう」

    第6回「上を向いて歩こう」

    第6回「上を向いて歩こう」―絶望の淵でも、明けない夜はない―

    檜原村で、羊を飼っている、とし坊です。台風の被害に合われた方々に心よりお見舞い申し上げます。 さて、今回は農業の話をします。 東京牧場は、三重県鈴鹿市に水田があります。そこでは、微生物活性農法という土づくりからスタートする農業をおこなっています。 竹チップとしいたけの菌床を利用して、農作物に適した土づくり目指しています。 一年かけて土づくりをおこなっている水田では、ボランティアの方々と「コシヒカリ」を作っています。今年も、旧盆の頃に稲刈りをしました。 毎年収穫すると、困っている方々に無償配布しており、今年は、あきる野市内のこども食堂にも届けることになりました。 毎年お米を収穫し一部の種を来年蒔きます。人々が生きるために必要な食べ物も、今回の脅威であった自然が恵んでくれるのに他なりません。

    世界の産業を見ても、農業に従事する人口が一番多くなっています。 私が各国を旅していて感じたのは、「農業」が正しく機能している国は、自然との向き合い方が真摯だということです。また、自然に囲まれていると、幸福度が高くなると思っています。 お米の配布をするもう一つの理由は、昔、育児放棄された児童を預かった経験からです。 焼肉をごちそうしようとすると、コンビニのおにぎりでいいというのです。私が自宅の玄米を精米し、炊きたてのご飯で塩にぎりを出すと、「おいしい、おいしい」と、涙を出しながら食べていた子どもの笑顔を、今でも忘れる事ができません。白いお米には日本人の心が宿っていて、子どもたちに伝えるべきものと思っています。 今日お茶碗に一粒のご飯を残したとして、日本全体でどのくらいになるのでしょうか?  私は、収穫したお米でご飯を炊き、一粒ずつ数えながら子どもたちに食べさせてみた事があります。そして、そういうときには「一億人の日本人たちが、それぞれ一粒のご飯を残したとしたら、1日で5㌔グラムの米袋が480袋もゴミになるんだよ」(米1000粒 24グラム換算)と、その大切さも伝えるようにしています。

    <第5回「釧路の夜」第7回「この広い野原いっぱい」

  • 第5回「釧路の夜」―天国と地獄―

    第5回「釧路の夜」―天国と地獄―

    第5回「釧路の夜」―天国と地獄―

    檜原村で、羊を飼っている、とし坊です。8月に熊による被害を受け、テレビ報道された事で、多数のお見舞いを頂きました。改めてお礼申し上げます。 残念ですが、希少な羊たちは、山形農場と、秋田農場に疎開しました。檜原村での農業は傾斜地という条件もありますが、獣害が多く対策に予想以上の経費がかかります。 イノシシが電柱を倒して、ネット回線を遮断したり、熊が倒した金網を鹿が乗り越えて、東京葡萄を全滅させたりと、目の前が暗くなる事ばかりです。 ただ、9月に東京農工大学で発表させて頂いた「レア・シープについて」は、多数のご来場者から活発な意見を頂き、新しい展開ができそうで楽しみです。 さて、昔話に戻ります。1991年に操業を開始した北海道工場が軌道に乗り出した1993年、釧路沖地震があり、ブラックアウトになったことで、会社の設備一式が壊滅的被害を受けました。そして、復旧もままならない翌年、北海道東方沖地震にも見舞われました。2年続けて震度6を経験したのです。 自然の驚異になすすべもなく、設備の壊滅的な状況を見て途方にくれる状態で、釧路の夜を過ごしていました。 飲んだくれて自暴自棄になりそうな時、当時一村一品運動などで、企画アイデア出しをボランティアしていた事もあり、商品コンサルティングを依頼されることが多くなりました。

    そして、1995年 ある大学内で行われたインターネットの「商品化」検討で、その可能性の大きさを実感し、日本での普及に向けてプロバイダーサービスを全国展開しました。 その後のインターネットの発展とともに、会社も思った以上に成長したいったのでした。 マイコンを始めた時もそうですが、今日のスマホやネットの普及は、予想できなかったのではないでしょうか? 未来は期待を裏切るものと思います。 この連載を始めたときも、今まで自分が日本国内や世界を旅してきたことを書く予定でした。皆様からのメールを拝見していると、自分も、何かもっと別のものをお伝えできるのではないかと思うようになりました。 「絶望の夜にも、希望の朝が必ず来ます」

    <第4回「北の宿から」第6回「釧路の夜」>

  • 第4回「北の宿から」

    第4回「北の宿から」

    第4回「北の宿から」―時代の流れに乗り事業拡大―

    檜原村で、羊を飼っている。とし坊です。 最近「紡ぐ」「染める」という手作りに「はまる」方が増えており、国産羊毛が不足しています。そんな中、今年も9月21日(土)から2日間、すみだ産業会館(墨田区)で東京の羊毛の展示販売会を行います。10月には染めや紡ぎが得意な方々の協力を得て、草木染め体験教室を奥多摩の「山染紡(さんせんぼう)」で開催します。興味ある方はぜひご参加ください。その翌週には、当社希少羊のマンクスロフタン試食会が、府中市の東京農工大学内で行われる事となり、関係者から大きな期待が寄せられています。  さて、昔話に戻りますが、ちょうど「昭和」から「平成」に移り変わる時、北海道庁から当社に尋ねて来た方がいました。北海道では産炭地域特別法があり、企業進出すると法人税免除や、補助金が出るというのです。平成の時代に石炭を掘っているのを知らなかった私は、すぐに北海道へ見学に行きました。当時から人口減少を問題視している道の各自治体から大きな歓迎を受け、週末は北海道で過ごし、国有地購入を考えるようになりました。

    やがて、太平洋を見渡す丘(北海道白糠町)が気に入ったのですが、そこは牧草が広がる農地でした。ところが、町長からその丘に建物建設を勧められたのです。北海道での農地転用は難しく、何より所有者の方々も先祖代々受け継いだ土地を手放したくないだろうと思っていました。 しかし、所有者に会うと、「土地は死んで持っていけない。活用してもらえれば」と言われ背中を押されました。  譲渡当日は、「この太平洋を一望できる場所も元々は、誰の物でもなくアイヌの見張り台があっただけで、18世紀に蝦夷地の開拓事業とロシアへの防衛強化から、八王子市の千人同心が北海道のこの場所に来て開拓がはじまった“最近“のことなのです」と、役場の担当者から土地の歴史を聞き捺印しました。 その日から役場内に当社進出のプロジェクトチームが結成され、農地転用を含めた行政・地域の強力なバックアップが行われ、1991(平成3)年に当社の北海道支店(写真)が誕生したのです。

    <第3回「どうにもとまらない」第5回「釧路の夜」>

  • 第3回「どうにもとまらない」

    第3回「どうにもとまらない」

    第3回「どうにもとまらない」―ひょんな事からパソコンが本業になる―

    檜原村で、羊を飼っている。とし坊です。檜原村では、マンクスロフタンという希少種の繁殖をしています。角が最大6本出るという事もあり、出荷先の動物園では、隠れた人気があったりします。マンクスはバイキングが航海に連れて行った羊といわれるレアな品種で、世界的に嫁入りや婿養子を迎えたいのですが、移動が禁止され、日本では絶滅危惧となりました。それをネットで知った方々から支援が集まり、ある獣医学部の協力を得たことで人工授精プロジェクトが始まります。  さて、話は昔に戻り、前回の続きです。 鉄工所で計算業務がこれほどあるとは知らず、日中の労働と計算機の連打が休みなく続く、ブラック企業な状態でした。 もうろうとする毎日に、何とか楽できないものかと思っていたとき、マイコンの存在を知り、導入することになりました。

    ところが、計算の自動化を進めるにはプログラムが必要で、さらにプログラミングまで勉強しなければならなくなり、「もうだめだ、会社を辞めるしかない」と何度も思いました。 しかし、試行錯誤しているある日、プログラムが動くようになったのです。すると、驚くことに、今まで睡眠時間を削っていた計算が、あっという間に終わるだけでなく、プリンターできれいに印刷された書類を見た人たちは、「町の鉄工所がコンピュータを使っている」と当時の鉄工・造船業界でも話題となったのです。  噂を聞いた大手電機メーカーや有名な上場企業さんが次々と、仕事の話を持ってきてくれるようになり、事務所を増設し社員も雇用して、プログラマー育成をはじめました。 さらには、プログラムだけでなく、ハードウェアも設計するようになり、事が思わぬ方向に進み出したのです。すると、今まで毎晩遅くまで仕事だった生活が、ほどなく銀座で飲めるようにもなりました。 その後も、次々と入る仕事に人手が追いつかず、ついには高校生の弟にも、学校から帰ったらスーツに着替えて、都内の打ち合せに行かせる状況になりました。しかも、数日で終わりそうな仕事に「なんとかお願いできませんか」と高額な見積を提示されると、もう「どうにもとまらない」という状況で突き進んでいったのです。

    絶滅危惧のマンクスロフタン

    <第2回「高校三年生」第4回「北の宿から」>

  • 第2回「高校三年生」

    第2回「高校三年生」

    第2回「高校三年生」―高校生ひとり暮らしと実家全焼!―

    檜原村で、羊を飼っている。とし坊です。 5月に開催した丸焼きバーベキューには、100人以上が集まりありがとうございました。さて、この連載が始まり昔を振り返ると、本当に手が付けられない子ども時代だったと今更ながらに思いました。横浜に住んでいた小学生時代から、やんちゃを繰り返し、高校では自立をしたいと親の許可を得て学校の近くに、六畳一間のアパートを借りました。喫茶店でアルバイトをし、雨の日は通学が面倒で学校を休み、真夜中に海が見たくなれば、バイクを飛ばすなど、当時いわゆるワルといわれるような日々でした。今思い出しても、トンデモナイ高校生活でしたが。最高の時期でした。ただ、困っている人を放っておけずイジメなどは絶対にやりませんでした。高校三年生のとき、実家が隣家の延焼で、全焼し、その日から後片付けや、建て直しの準備に3か月近く学校を休みました。退学届持参で学校に行くと、今まで校内での悪行の数々に、「次こそ退学処分!」と言っていた校長先生ら教職員が、卒業に配慮してくれるというのです。

    家に戻り、卒業後は事業を始める事を母に伝えると、今まで頼み事をしない母が、父の会社を手伝って欲しいというのです。父からはそんな話は一度も出たことがありませんでしたが、親孝行と思い父が経営する鉄工所に入社しました。元々は、祖父の地元に誕生した日本最大の紡績会社(東洋紡)の機械製造協力のため、横浜に拠点を移す事となり、昭和元年に愛媛県の山林等を売って、横浜に来ましたが、戦後は造船がブームとなり、実家の鉄工所はいくつもの工場を抱えていました。入社してみると、最初の仕事は、昼間は溶接や機械加工、それを4トントラックで配達して、夜は図面から材料を算出して、計算するというトンデモナイきつい仕事が始まったのです。

    大盛況の無料バーベキュー

    <第1回「よこはまたそがれ」第3回「どうにもならない」>